⑨法政大学に進学し、山形から東京へ。世界が大きく広がった
山に囲まれた所で一生を終えるのは嫌だという気持ちが強くなり、大学進学を機に、山形を離れることになりました。
以前から社会科学分野を学びたいと思っていて、法政大学の法学部政治学科に入学しました。大学に入って急に世界が広がった気がしました。
卓球とジャズバンドのサークルに入り、サックスにも挑戦しましたが、この2つは1カ月で挫折しました。
留学生との交流を目的とした国際学生交流会にも入りました。これまで見たことも聞いたこともないサークルで、大学の主催で年1回行なわれるスピーチ大会に参加する留学生の援助者をしました。
このサークルは、首都圏の13大学15団体でつくる「国際交流大学連絡協議会(SNIE)」に加盟していて、後にこの協議会の副会長を務めることになり、国際学生交流会やSNIEの活動が学生生活の中心となっていきました。

国際学生交流会のメンバーと。左から3番目が冨田、その右は中国の留学生
⑩アジアの学生たちとの交流を通じて、「二度と戦争はしない」が血肉に
法政大学の国際学生交流会では、先輩の一人が「まじめな学習会をやろう」と「アジアンゼミ」を始め、ODA、日本の戦争責任、731部隊などをテーマに学習しました。
留学生やアジアの学生たちとの交流を通じて考えさせられたことは、より深くつきあうためには、互いの国の間で過去に何があったかを知る必要があるということです。サークルの合宿で韓国・ソウルに行った時のこと、現地の女子学生から「どうして日本の政治家は、侵略戦争を免罪する発言をくり返すのか?」と問いかけられ、ハッとさせられました。
これらの活動を通して、「日本は二度と戦争をしてはならない」いう思いが、自分の血肉となっていきました。
また、国際交流大学連絡協議会(SNIE)の活動では、大人数で企画に取り組むことも多く、初対面の人や大勢の人と臆せずに接することができるようになりました。
この頃は、北新宿の日本語教育センター(旧国際学友会)にもよく通いました。

日本の植民地支配の拠点だった旧朝鮮総督府(ソウル)の前で。左から2人目が冨田なおき
⑪阪神大震災の救援活動にとりくむ姿にふれ、民青同盟に加盟
1995年1月17日、阪神大震災が発生し、戦後最悪の被害をもたらしました。
とても人ごとだとは思えず、国際交流サークルの先輩が被災地にボランティアに行ったり学内でカンパ活動をしたりする姿を見るにつけ、「自分も何かしなくては」という思いを募らせていました。
大学3年の時、民青同盟に誘われました。両親から「学生運動だけにはかかわるな」と言われたことや、組織に入ることへのためらいから、いろいろな理由をつけて渋っていました。
その年の夏、地震の被災者の救援活動にとりくんでいた民青同盟の学習会に初めて参加。薬害エイズ問題などにも取り組む真面目な学生が大勢いることに勇気づけられ加盟しました。
民青同盟に入ってみると学ぶことすべて面白く、不破さんの著書『綱領路線の今日的発展』には、一つひとつ自分の疑問が解明されており、驚きと感動をもって読みました。
⑫ 日本共産党との出会い--入党を決意
政治や社会に関心をもちはじめたのは中学生のときでした。ちょうど消費税導入やリクルート事件、天安門事件の頃です。 父の帰宅が毎日深夜になるのをみて、「こんな世の中何とかならないかな」という思いがありました。家に届けられたビラをみて、「投票するなら、汚い金と無縁の共産党」と思ったのも、この頃です。もうひとつ、母が高校の恩師から聞いたという話――「共産党は、戦前、命がけで侵略戦争に反対した党なんだよ」――この言葉も強く印象に残っています。
大学生になり東京にでてきて、中央委員会に「赤旗」の購読を葉書で申込みました。また、第20回党大会決定を読んでみると、「ソ連崩壊や小選挙区制でお先真っ暗な党だと思っていたのに、地方議員数は第1党だと書いてあるし、意気軒昂だ」と思いました。
大学3年の9月に民青同盟に加盟しました。知り合った共産党員はみんないきいきとして魅力的でした。
政治や経済を学ぶなか、党の路線に疑問はまったくありませんでしたが、入党を勧められたとき、〝党に入ると不利益があるのではないか〟とためらいがありました。
「不利益というのは、支配層が共産党と国民を分断するため。共産党が多数派になってから、その恩恵を受けるのは虫がいいのではないか」という言葉にグッと考えさせられました。
1996年11月、入党を決意しました。
⑬ 阪神・淡路大震災の被災者支援のために奮闘
「はやく仮設住宅を出たい」「働きたくても仕事がない」「生活再建の目途がたたない」―― 阪神・淡路大震災の被災者の方々から直接うかがった声です。
被災者の支援に本格的にとりくんだのは、1997年に、ボランティアサークルと民青同盟が共催で、被災者支援集会を開き、その実行委員となったのが最初でした。この集会がもとになって、「被災者の個人補償を求める東京の会」が結成され、署名活動、学習、国会要請などにとりくみました。
「東京の会」として、神戸を訪れたとき、被災者の方々がたいへん歓迎してくれました。仮設住宅にも、一晩泊まらせていただきました。被災した青年たちは、家族を亡くしたり家が崩れたりという状況のもと、進学を断念するしかないという現実に直面していることも聞きました。
駅前は復興し立派なビルが建設される一方で、多くの市民がいつまでも仮設住宅で暮らさざるをえない――庶民は置き去りされているのでした。
しかし、苦境にあっても、生活再建にむけ運動する市民の姿がありました。日本共産党は被災者の方々と力をあわせ、震災直後から国による個人補償と住宅保障を求める提案を行い運動を続けてきました。
2007年、〝個人資産への公的資金投入はできない〟という政府のかたくなな姿勢を変えさせ、ついに、住宅本体への支援ができる法律改正が実現しました。阪神・淡路の被災者には適用されませんが、被災者の方々の運動が〝風穴を開けた〟のです。
「貴重な一歩前進だ」と思うと同時に、ここまで来るのに、十二年もたたかわなければならないこの国の政治とはいったい何なのか。国民の痛みのわかる政治に変えていかなければ! この思いこそ、国会への挑戦の原点です。

神戸市で被災者支援の署名にとりくむ姿が「しんぶん赤旗」(97年8月25日付)に紹介されました↑
⑭日本共産党の専従活動家として
「日本共産党の専従活動家を考えてみないか」といわれたのは、大学四年生のときでした。入党して半年、日本共産党が政治のなかで果たしている役割に確信を深めていました。
職業として共産党の活動家を選ぶということに、行きつ戻りつ考え、「この党を大きくすることが社会を変え、政治を変える力になる」と、この道を決意しました。
そのころ、就職のことを心配し両親が上京してきました。自分の考えを話すと、両親は驚き猛反対でした。共産党に対する偏見が根強いなか、両親が心配するのも無理もないことでした。息子のことを思っての意見だけに、親の反対は辛いことでした。しかし、「誰かがやらなければならない仕事」「父も母も、必ず分かってくれる時が来る」と自分に言い聞かせました。
一九九八年の春、千代田地区委員会に勤務し、新しい生活を開始しました。一番長く勤めたのは、「赤旗出張所」です。
毎朝、三時過ぎに起き、届いたばかりの日刊紙を仕分けし、配達員を起こし、自らもバイクに乗って配達にでる忙しさ。「自転車やバイクがパンクしていないか」「雨の日に使うビニール袋があるか」「集金をどうするか」などにも気を配ります。
千代田区には、個人の読者だけでなく、各官庁、大企業本社が多くの「赤旗」を購読していますが、様々な読者に確実に届くよう気をつかいました。
いま、日本共産党が新たな注目を集め、その活動が政治を動かしています。「赤旗」は、たくさんの人の手で全国に届けられ、様々な運動を支え励ますとともに、家族みんなで楽しめ、役にたつ新聞として定評を得ています。大災害のときに被災者支援の輪を広げるのにも大きな力を発揮しているのが「赤旗」です。
いま、「派遣切り」という政治災害が大問題となっています。「赤旗」がより多くの人に読まれ、真実がもっと多くの人々に直接伝わること――それが、問題解決の大きな力になると、日々実感しています。
⑮特別編 子育て真っ最中。どんなお父さん?――妻・僚子さんに聞きました
2歳の男の子の父親として子育て真っ最中の冨田なおきさん。家庭ではどんなお父さんでしょうか。妻の僚子さんに聞いてみました。
――毎日帰りが遅いと思いますが、お子さんとはどのように過ごしていますか?
早く帰れる日は、子どもといっしょにお風呂に入ります。それから、電車の雑誌を子どもといっしょに見て、夢中になっています。電車のことを子どもに教えて、「父と子の世界」をつくっているようです。
――朝早く宣伝に出かける日もありますが、食事は?
おにぎりを持って出たり、外で食べたりです。私はまだ寝ています。早朝の宣伝がない時や休みの日は、朝食事をつくってくれます。卵焼きがとっても上手です。おばあちゃん(僚子さんの母)に教わって、家事も上達しました。
――普段はお子さんとどんなふうに過ごしていますか?
休みの日はお話をしたり、歌を教えたり。「サザエさん」の歌を歌っています。子どもをあまり怒りません。怒るのは私です。
――冨田さんについて何か新しい発見はありますか?
先日なんか、久々の休みに、九州の方へ行くブルートレインが廃止になるとかで、わざわざ乗りに行きました。目的地に着くために乗るのではなく、「乗るため」に乗りに出かけて行く気持ちが、私には理解できません。民営化でJRの路線廃止を嘆いています。「『路線を廃止させません』を公約にしたら」と言っているのですけれど…。
――夫婦げんかなどはないんですか?
私は、不満をその都度言っていますが、その都度きちんと受けとめて改善してくれています。わが夫ながら、「えらいなあ」と思っています。
――冨田さんに期待することは?
子どもがもう少し大きくなってからですが、休みの日にいっしょに出かけるとか、子どもとふれあう時間をもっととれるようになれば、と思っています。
ありがとうございました。